仮説があり、それに対して反証の余地が残されている。
思い込みだけで自分が絶対だという、ましてや、その人たちが党派を組むような、イデオロギー的な現象より、そのような科学的なアプローチの方が、よほど良いと思ったりしている。
啓蒙思想は、いろいろな説明が試みられている。
そのひとつは、仮説/反証の科学的なアプローチを、経済や社会などにも応用していこうとする考え方。
AIやブロックチェーンといった技術が好きなのは、ひとつに、この啓蒙的なところがあるから。
一方、啓蒙的なアプローチでは、すくい切れないものもある。
たとえばストーリィだ。こちらも、とても大切である。
日本の片隅で生きていて何だけれど、たぶん…西欧には大きなストーリィがあるでしょう。聖書とか。
ちなみに聖書に書かれていることは仮説ではない。反証もできない。
その大きなストーリィは時代がすすむにつれ、有効ではなくなってきていて、ひとりひとりが自分でストーリィを作ることが余儀なくされてきている。
とうぜん、それはシンドイわけで。だって、みんなが信じている大きなストーリィがあった方が、ラクじゃない。
これは何も西欧に限ったことではなくって。漱石は、これを「私の個人主義」で述べている。「こころ」という小説もある。
ただし「こころ」は100年くらい前の小説で、現状では、よそよそしい感じがしないわけでもない。
メタフィジカルな世界を描く村上春樹の小説は、世界中に読まれているわけで。