いぜん、西田幾多郎の「善の研究」を読んだ。
定評どおり、たしかに難解だけれど、曲解も含めて「あ、オレ、わかったわ」という部分が、ないわけではない。
それは直観(形而上について)だ。
ぼくは、直観する。
しかし、その直観は、その瞬間だけのものであって、時間とともに、それは、とらえることが、できなくなってしまう。再現など、できない。
ネットによると、西田幾多郎、1870(明治3年)〜1945(昭和20年)となっている。
ちなみに、フランスの哲学者、アンリー・ベルクソンは、1859〜1941だ。
両氏とも、当時、大きな存在だったし、形而上的なことに関心が持たれていたのかもしれない。
一方、げんざいは、もっと客観的なことに比重が移っている、とおもう。
社会は、これから、ますますデータ化していくだろう。
AI、ブロックチェーン、5Gといった技術が組み合わさり、DX(デジタル・トランスフォーメーション)化していくとおもう。
となると、逆に、ぼくたちは、これからもっと、直感的なことについて気にかけていった方がよいので、はないだろうか。