ノーベル賞のシーズンである。
文学賞には毎年のように村上春樹が候補に上がっている。
長編・中編なら、一作を除いて、村上さんの小説はすべて読んでいる。
その中でも「海辺のカフカ」が好きである。
夏目漱石も愛読している。
思い立ったように、「こころ」は何度も読んでいる。
ハナシは変わる。
ある日、地下鉄の向かい側の席に座っている女の子が、ダライ・ラマの顔をフォーカスしたカヴァーの本を広げていた。
なんとわなし覚えていて、書店にて、それが「こころの育て方」だと知った。
以来、本書は繰り返し読んでいる。
漱石はエゴを描いた作家である。そういう解説を読んだことがある。そう言われれば、たしかに、そうかも知れない、と思ったりもする。
一方(ほんらい小説はそういうものかも知れないけれど)漱石の小説には、主張も結論も述べられていない。読者に委ねられている。
なのでエゴは描かれていても、それに対するアプローチは示されていない。
ダライ・ラマの「こころの育て方」は「人生の真の目的は幸福を求めることだと信じていなす」で始まる。
その後の論を読んでいくと、人の本質はエゴではなく、むしろ利他にあるとしている。漱石の小説の描写とは、ほぼ重ならない。
ただし別々の小川の水が交わる場所を見つけたような、そんな私的な発見がある。
ちなみに「海辺のカフカ」も、この点で合流する。
キーワードは「引き継ぎ」である。
「こころ」の後半は、私に先生から宛てられた手紙となっている。先生の、手紙を書いた動機は、先生から私への心の引き継ぎである。先生は私に、手紙からの印象を望んでいた。ちなみに、この読み方は漱石の講演の中の「impression」が糸口となっている。
「こころ」では手紙が明示されているのに対し、「海辺のカフカ」では、(カフカ少年のお母さんかも知れない)佐伯さんは、ずっと書き続けてきた日記を、あえて残さないよう処理している。カフカ少年には手紙ではなく、抽象的な空間の中でインプレッションしている。
ダライ・ラマの「こころの育て方」については、以下のような文章に触れることができる。以下、ダライ・ラマ談。
「たとえば私の場合、私が最も尊敬していた師や母、それに兄弟の一人を亡くしました。彼らが亡くなった時、もちろん私はひどく悲しい、つらい思いをしました。それから私はくよくよ考えすぎるのは何の恩恵ももたらさないことを常に考えるようにし、そしてもし私が彼らを本当に愛しているのなら、穏やかな心をもって彼らの願いを成就させてあげなければならないと考えたのです。ですから、私はそのための最善を尽くすのです。もし最も愛する人を亡くした時は、いま述べたようにすることが適切な方法だと思います。いいですか、亡くなった人の思い出を保ちつづけるための最も良い方法、最もすばらしい追憶は、あなたがその人の願いを引き継いであげられるかどうか考えてみることなのです」(「こころの育て方」P162/ ダライ・ラマ、ハワード・C・カーター/求龍堂)