まずは馬について話そうか。
日本の古来の戦は、馬に乗り、単騎でそれぞれ名乗りを上げたあと一線を交えていた。
それに対し、義経はまったく違っていた。
集団で馬に乗り、一気呵成に相手の陣地に攻め込んだ。
海に面した一ノ谷に陣を張った敵地に、騎馬で、背後の山間から(ひより越えで)敵の陣地に攻め込んだのは歴史上、有名な場面である。
話はそれるが、海に面した中東の要地アカバへ、背後の永遠と続く広大な砂漠から敵地に攻め込んだのは「アラビアのローレンス」だ。
義経の、ひより越えから時代はクダる。戦国時代は既に騎馬は一般的になっていた。
織田信長は、武田勝頼率いる騎馬隊に対し、3000挺(ちょう)の鉄砲を用意し、鉄砲の三段撃ちで勝利した。これも歴史上の名場面となっている。
小説家の司馬遼太郎さんは、戦において(当時はとても効果があってけれど)古くなった風習にについては否定的だったとおもう。その点、当時の義経や信長の、新しい技術とその扱いを訓練した戦術は肯定しているように思う。
個人的も、司馬さんの見方には賛同している。
ちなみに、ここでは文化や、個人で言えば趣味について言っているのではない。戦について言っているのだ。
ビジネスを戦さを同列にとらえていいのか、いまのところ、よく分からない。
でも、ここではいっそ同列として仮定してしまおう。
既存の仕事は、畑違いと言ってよい、まったく違う、新しい思いもよらないツールから「攻撃を受け」、そして敗北してゆく。
オッケー、体験から引き寄せてみようか。義経や信長からいきなりスケールが小さくなってしまう。
印刷の前工程、いわゆるプリプレスは、写植屋さんが文字を打ち現像し、それを版下屋さんが台紙に貼っていた。
それに対して、Apple社とAdobe社が協業して、文字やレイアウトはパソコンのディスプレイ上で出来るようになった。
写植機のライバルはMacだったわけである。
名乗りを上げ1騎づつの戦いに対する騎馬、騎馬に対する鉄砲のように、見かけも操作も異次元のものと戦い、やはり、破れたわけネ。
げんざい、ChatGPTにどっぷりハマっている。既存の多くの職業が、プロンプトを打ち、Pythonの最低限の知識でAPIを叩く人に「攻撃」されるように思っている。
まっさきに、さらされているのは僕たちコピーライターだ。