ジョージ・オーウェルの「1984」を再読した。
そのきっかけは作中のビックブラザーをAIの未来像になぞらえてみたかったからだ。
読了し、そのことを書く前に、まずこの小説の内容や感想自体うまくまとめれるかどうか自信がない。それだけ複雑な小説なんだと思う。
ビックブラザーは特定の人でもグループでもない。あえて言えば作者のオーウェルがこの小説のために創作したイデオロギーだ。
舞台となるオセアニアはイディオック(一党独裁の政党)に統治されている。
そして党によりビッグブラザーの理念と矛盾する歴史や情報は日々破棄されたり改竄されていく。
実態がはっきりしないゴールドスタインを党の敵と見立て、憎悪を継続的に彼に集中させることで連帯感を醸成している。
党に都合の悪いことを思考できないようにするためニュースピークという言語を人工的に考案し、それを党員たちに教育させる計画を実行している。
それだけではない。以上のことなら「そのふりをすることもできる」だろう。
党は徹底していて、党員たちの生活や内面は常に観察され、疑念が発見された場合、その人は抹殺されたり、拷問により精神が完膚なく破壊され体制に対する反抗が消し去られる。
この小説の終わりの部分では主人公のウィンストンは拷問により党にマインドコントロールされてしまう。
読了したあと、結局、こうなるのなら、それまで描写されたウィンストンの考えや心象は無意味で、虚無感にかられてしまう。
個人的にはなかなかそうならないけれど、一方で、作者のオーウェルは憎悪、恐怖、怒り、自己卑下を示す党の描写により、違うことを引き立てたかったのではという見方もできそうだ。
僕はこの小説を読んで2つの救いと感じている。
ひとつはウィンストンの幼少の時の母の思い出、もうひとつはプロールへの思い入れだ。
この小説からその印象的な部分を引用してみよう。
「母は際立った女性ではなかったし、まして知的な女性でもなかった。しかし彼女には一種の気高さ、純粋さがあった。それはひとえに彼女が自ら用意した規範に従って行動したからだった。彼女の感情は彼女自身のものであり、外部からそれを変えることはできなかった。実を結ばない行動は、そのために無意味であるなどとは、夢にも思わなかっただろう。誰かを愛するなら、ひたすら愛するのであり、与えるものが他にないときでも、愛を与えるのだ」(p253)
「彼らは個人の引き受ける忠誠義務というものを疑うことなく信じ、それに従って行動した。重要なのは個人の関係であり、無力さを示す仕草、抱擁、涙、死にゆくものにかけることばといったものが、それ自体に価値を持っていた。そうだ、プロールたちはそういった状態のままに留まってきたのではないか、不意に彼はそうした思いにとらわれた。かれらは党や国の概念に尽くしたりはしない。お互いに忠実であろうとするだけだ。彼に人生で初めて、プロールたちの軽蔑の念が消え、かれらはいつの日か急に活気づいて世界を蘇生させるかもしれないが、当面は単なる不活性に過ぎないという考え方を改めた。プロールたちは人間性を保ってきたのだ。内側まで無感覚になっていない」(P253)
「庭の女性はせっせと生きつ戻りつしながら、洗濯ばさみを口にくわえたり口から取り出したり、そのたびに歌をうたったり黙ったりして、おしめを物干しに吊るしていく。おしめは次から次へと出てくるのだった。彼女は選択の内職をして生計を立てているのだろうか、それとも、二十人、三十人もいる孫のために奴隷のように身を粉にして働いているのだろうか、とうウィンストンは考えた。ジュリアが彼の隣にやってきていた。二人ともどこか魅入られたように眼下の逞しい女性から目が離せない。彼女特有の姿勢ー太い腕が物干しに伸び、臀部が牝馬のように力強く突き出ているーを見ているうちに、彼はこれまで気づかなかったが、彼女は美しいと感じた。五十歳の女性の肉体、出産のたびに途方もない大きさまでに膨張し、その次には働き詰めで硬化し節くれだった挙げ句、熟れすぎたカブのようにきめの荒くなった肉体が美しいはずなどない、彼はずっとそう思い込んでいた。しかし彼女は美しいのだ、そして、結局のところ、それも当然ではないかと彼は思った。花崗岩の塊のように固くて輪郭の崩れた肉体とざらついた赤い皮膚とを若い娘の肉体と比較するのは、バラの実と花を比べるのと同じ。実が花より劣る謂れはない。
「美しい女性だな」
「ヒップが1メートルはあるわ、文句なく」
「それが彼女らしい美しさなんだ」ウィンストンは言った(p336)