学術的な歴史の書籍を読むのは、忍耐を強いられる。
書く方は間違いがないように様々な書物をひもとき、慎重に書いているけれど。読む方にとっては、どうも、骨が折れてしまう。
といって、読みやすい歴史小説では、ストーリィに創作があるのではと思ってしまう。
いや待てよ、そもそも学術的な歴史書は事実と言えるのか?
いったい、事実とはなんだろう。
オッケー。自分に引き寄せて考えてみよう。たとえば、取材をする。聞き方によって返ってくる内容は、当然ちがうだろう。
取材を受ける方も、自分の置かれている立場、聞いた場所、それに体調により、内容はちがうかもしれない。
それなら、いっそ、取材をもとにストーリィを作り、のちほど、取材させてもらった人に了解を得ることができれば、それが事実であると言ってみたいような気もする。
話はそれてしまうけれど、ネットで記者会見を見ていると、その席の前にいっせいにICレコーダを置く映像が流れたりする。会見を聞きながら、記者たちが一心不乱にパソコンのキーボードを打っていたり。そういうのを見ていると、オレ、突っこみたくなるんだなぁ。