たしか、漱石が「こころ」を書いてから100年くらいたっているでしょう。
「こころ」はなんども読みかえしていて。そうだなぁ。たとえば、後半の、先生の折にふれてのこころのナイーブな変容ぶりはみごとな描写だとおもう。漱石のほかの小説もこころの動揺がうまく書かれていて、それは、ほかのことばでいえば、エゴを描いているといえるのかもしれない。
ま、いずれにせよ、描ききってはいるのだけれど「そうだから、そうなのだ」的なんだね。
それに対して、ぼくと同時代性の作家たちはちがうアプローチをとっているとおもう。あるいは、たまたま手にする小説がそうなのかもしれないけれど。
このへん、時代をへて進歩しているとおもったりしている。
それは、こころのやんちゃな帰結としての喪失感にたいして、どう向き合うかということなんだ。
たとえば村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、喪失感にたいして、その時がきて、じぶんでストーリィをつくるしかないという。すくなくとも、ぼくはそういう読み方をしたわけ。
いまカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」をよんでいる。こちらも、失われているものに対するストーリィつくりが描かれているんじゃないか。「多崎つくる」とともに、とても、よい小説だね。