抽象的な言葉

ひらがなが好きである。それにくらべ、カタカタしているカタカナは好きじゃない。漢字は書くのが、めんどうだ。

明治の開国以来、色々な抽象的な概念が西洋から輸入されて来た。

とうじの、ものしりたちは、おおくのことがらをカタカナで表現するのではなく、漢字をあてた。

いってみれば、西洋の概念を言い表すために、日本語ではなく、漢語からことばを拝借した。

そのためだろうか、ふだん、さりげなく言ったり書いたりしていることも、ジッと見てみると、わからないことばが多い。

一例をあげてみよう。

権利、観察、視察、実際、実験、経験、実証、真理、論理、形而上、形而下、演繹、宗教、自由、立法、司法、行政、義務、科学….(「日本漢語と中国」鈴木修次より)

時代の変わり目なのかねぇ。

既存のことがらが、ゆるぎはじめ、マスコミでは、連日、ジャーナリストや、その筋の知識人が、いろいろなことを語っている。ネット上でも、わんわん、わんわん語られている。

で、語られれば語られるほど、なんだか分からなくなってきてしまう。

その要因のひとつは、そもそも外国から二重(西欧と中国)に拝借してきた、ことばどもが多用されているせいだと、おもったりしている。ぼくも含めて、分からないことを言ってしまうことって多いもんなぁ。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!