本をよく読むわりには、本はそれほど多く所有していない。
図書館をよく利用するし、購入した本も、気が向いたとき、いらないものは、いっせいに捨ててしまうからだ。
おのずと、手もとに残っている本は、なんらかの意味を持っているだろう。大事に思えるから。気になるから。あるいは再読してみたいから。ま、そんなところだろう。
いちじき、若気のいたりでドストエフスキーばかり読んでいた時期がある。げんざいの本棚にも「カラマーゾフの兄弟」など、数冊の小説が並んでいる。でも、さすがに、再読したことはない。長すぎるからだ。
漱石もけっこうある。こちらは折りをみて再読している。「こころ」は10回くらい読んだかもしれない。いや、もっと少ないかな。後半の、いくえにも重なった心の様相の描写は、見事としか言いようがない。
コンピュータの書籍もけっこう残していて。あらためて見てみると、ウェッブ関連のものが多い。じっさいウェッブは、四半世紀にあいだ、情報収集(Google)、買物(Amazon)、交流(Facebook)などなど、仕事や生活に大きな影響を与えたとおもう。インターネット、イコール、ウェッブのような印象さえある。ちがう言い方をすれば、ウェッブというアプリケーションのおかげで、インターネットが普及したとも言える。
もちろん、これからもウェッブの技術は残るだろう。ただ、これからはブロックチェーンやディープラーニングといった、ウェッブに次ぐアプリケーションが盛んになるような感想を持っている。ウェッブが情報系を革新したように、前者は信用面に革新をもたらすだろう。いままで銀行や不動産会社により担保されていた信用が、ブロックチェーンにより、ユーザーどおしで安心してやり取りできるようになるだろう。
後者のディープラーニングは、よく脳の視覚野にたとえられる。目をもち、それを処理する条件(ビックデータ、GPUなどの処理系、アルゴリズム)が整ったというわけ。
たとえば、何十万枚の写真の中から、瞬時に必要に応じた写真を検出したり分類したりできる。顔認識、あるいは(どういうひとが、どのくらいの数、通ったかなど)街ゆくひとの特徴をとらえるなど、いろいろな分野で応用できる。さらにセンサーや機械類と連動させれば、いままで不可能だった実作業も実現できるだろう。