性悪説からのアプローチ

お盆では1年に1回しか会わない人とはなす。

こういう話題があった。

10年前、新幹線のプラットフォームわきの駐車場は無料だったという。

げんざいは間違いなく有料である。

「新幹線で身内を見送るあいだ、駐車していた」ということや、そのほかのことを聞いているうちに「おいおい、それはタクシー乗り場の広い空間とカン違いしてるよ」という感想を持った。「それはルール違反だよ」とまでは言わなかったけれどネ。

ま、それにしても、10年前の事実はわからない。ほんとうに駐車場は無料だったのかもしれない。

それじゃあ「10年前も有料説」という僕の仮説を深掘りするには、どうすれば良いのだろう? とうじの駐車場担当に聞くことができればスッキリするけれど。そのようなひとは、どこにいるんだろう? しかも10年前だぜ。

オッケー、それでは、ひとの性(さが)について考えてみよう。性善説と性悪説についてだ。(個人的には、深いレベルでは違うとおもうけれど)このさい、性悪説をとってみよう。

ひとは性悪である。ほっておくと、ひとりひとりは好き放題のことをやり、全体的にみれば、きわめて効率の悪いことになってしまう。そうならないために、ひとの悲しい性にカタをはめる必要がある。

このことを前提にして、はなしを、もとにもどそう。

新幹線わきの駐車場が、もし無料だとしたらどうだろう? 時間を気にしなくてもよい利用者は、駐車時間にルーズになってゆく。新幹線の利用客でなくても平気で止めるようになる。そのほかのトラブルも多くなるだろう。新幹線の駐車場側は、そのためのコスト(時間や労力)を支払わなくてはならない。だったら、逆に駐車場を有料にしてお金をとった方が、よほど合理的だ。したがって10年前も新幹線わきの駐車場は有料なのである。

 

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!