暴力性についてかんがえている。
このばあい、暴力ではなく、暴力性というところにミソがある。
経済性、効率性、人間性、協調性、信頼性..と書いてみる。
性もあいまいだが、その上の経済、効率、人間、協調、信頼というのも十分に抽象的である。
経済、効率、人間ではなく、もっと輪郭のはっきりしたもの、そうだなぁ、たとえばカレーライスに対してカレーライス性とか Tシャツに対してTシャツ性とは言わないじゃないの。
で、「性」については、もうひとつ感想がある。
たとえば信頼性を例に出すと、「信頼」の方が上にあるせいか、ともすると「性」は、「信頼」の付ろくのようにおもえる。
でも「性」というのは、「孟子」の性善説、「筍子」の性悪説というふうに古来からのテーマであり、現在でも議論が続いているくらい、
ささやかなようで、見すごせないものだとおもう。
オッケー、暴力性のハナシに戻ろう。
暴力はモノではない。では暴力とはなんだろう? ひとを叩いた。あるいは叩かれた。これは暴力だろう。ひとを罵った、これは、どうだろう。ちょっと輪郭があいまいになってきたりする。ただし、時代が下るにつれ、暴力の閾値(いきち)は下がっているので、げんざいから振り返ってみれば、かつては、よほど暴力の時代だっかもしれない。「オイオイ、それは、さすがに暴力だろ」みたいな。
ま、いずれにせよダヨ、暴力は当事者からすれば「あれは暴力だよ」と思うし、それを見ていた第三者の「あれは暴力だネ」と思ったりする。
じゃ、暴力性とはなんだろう? 前述したとおり「性」は、ただのオマケというわけじゃない..よね。
たとえば、ここ数日、財務省理財局の問題が盛んでしょう。野党共同の理財局のヒアリングはネットで見れたりする。理財局の担当者たちは、真面目そうにみえる。暴力とは縁遠い雰囲気だ。
しかし、公的な文章の書き換えには暴力性がかいま見える。当事者たちは事務的に、それも精力的にやっているのに、そこには暴力性があるという。
ま、それは、なにも官僚の仕事だけではなく。ともすると仕事には暴力性が潜んでいる。たとえば取材をする。取材を受けた方は、なにかをしゃべらなくてはならない気持ちを持つだろう。ここにも暴力性があったりする。