アプリケーション

よく、アプリケーションというコトバをつかいたくなる。

スマホでは、アプリケーションは、呼びやすいように、そして親しみやすいように、短く、アプリと呼ばれたりもする。

後で、辞書で、その意味を調べてみるけれど、じぶんがアプリケーションというコトバをつかうばあいは、なにも、スマホやコンピュータだけでなく、たとえば、こんなかんじだ。

電気が電線をつたって家庭まで来ている。その先に、クーラー、洗濯機、冷蔵庫がつながっている。

そのさいの、それぞれのアプリケーションは「部屋を冷やすこと」「衣類を洗うこと」「食品を長持ちさせること」となる。

2010年前後は画期的なツールが、開発されたとおもっている。

ディープラーニング、ブロックチェーン、クリスパー9だ。

それぞれのアプリケーションは、たとえば、自動運転、仮想通貨、ゲノム編集となったりする(ゲノム編集については

このさい、アプリケーションの意味を辞書で調べておこうか。

the pratical purpose for which a matchine,idea etc can be used,or a situation when this is used.
(LOMGMAN/iphoneのアプリより)

for文 / python

for i in range(6):
print(i)
print(‘Hello World’)

0
Hellow World
1
Hellow World
2
Hellow World
3
Hellow World
4
Hellow World
5
Hellow World

for文の基本的な書き方だ。
でも、これでさえ、理解がしっくりいかない。
これに対しては(間違っているかもの)補助線を引いて、
in rangeはブロック内の関数が実行される回数で、0,1,2,3,4,5は、それに対する添字というふうに、このさい、思ってしまおう。

for文とappend()関数の使い方は、こんなかんじ。

external_list=[]
for i in range(1,6):
external_list.append(i)

external_list

[1, 2, 3, 4, 5]

取材について

きのう、「統計学が最強の学問である」という書籍について触れた。

オレでさえ、再読することで、だいぶ理解できる良書だとおもう。

ただし、続編となる「実践編」や「数学編」はお手上げだ。

後者を読むには、基礎的な数学や統計の知識が必要だ。

「教科書を読めない子どもたち」という本が話題になったそうな。

きのう、たまたまネットで、教科書を読めない子どもたちが、本書を読む場合、じぶんで分かるところだけつなげて理解するという記事を読んだ。

これって、なにも子どもに限ったことであるはずが、ない。

オレだって分からないものを無理やり理解しようとすれば、そうなってしまう。

先に触れた統計学の続編の書籍を読んだときも、そんな感触だわ。

前置きが長くなってしまった。取材について書いてみたかったんだ。

取材の仕事を受けても、じつは、取材者はその対象について理解してはいない。

おうおうにして、子どもたちが自分で分かるところだけ、つなげて理解するのと同様な状態となってしまう。

それでも仕事が成立していたのは、媒体、というとむつかしい言い方だね、要は新聞、雑誌、パンフレットという媒体が当然のようにあったから、なんだわ。

その存在の、おすそ分けにより(そこに載ることが前提になっているおかげで)理解できてなくても、フツーにカバーできていたわけネ。

たとえば、読売新聞の記事広告に載せることが決まっていることにより、取材者の理解云々には、目が行くことは、ない、と言ってしまおう。

インターネットは、ただのプロトコルだけれど、そのアプリケーションであるウェッブ、そしてSNSは、とても大きな影響を与えている。

ウェッブ誕生から25年たって、ようやく保守的な、政治や、医療・教育などにも影響を振るうようになった。

けれど、いちばん、真っ先に影響を受けたのは広告や出版なんだぜ。

影響どころか、打撃と言ってもいい。

打撃というと、その方向はマイナスを示すけれど、良いこともある。

それは、寄れば大樹の媒体に頼れなくなった取材者の無知が、無効になってしまったことだ。

それについて、考えてもいるけれど、きょうは、ここまでね〜

不確かさについて

従来の、空気のように普通だと思っていた基準が不確かになってきている。その結果、一方では「好き」「嫌い」を基準に、それが増幅され、たとえば、現在の日韓関係の深刻さとして表出させている。自由や民主主義は普遍的ではないでしょう。理念を持ち続けてきたことで、保たれてきたんだと思う。本来は、「好き」「嫌い」で相手をやっつけてしまうような、荒々しいものだと、言えなくもない、と思う。

「ショック・ドクトリン」というナオミ・クラインの書籍がある。ずいんぶん前に読んだので、記憶が不確かだけれど…アメリカの政策を立案する、あるグループが、混乱している南米や東欧のある地域をさらに混乱させ、カオス状態にさせた上で、自分たちのアイデアが社会にどう実現するかどうか確かめ…そして、その結果を踏まえて自国にも、そのアイデアを入れていこうとした…そういうことが書かれていたと思う。アメリカを更地にした上で、まったく新しくするといった当初のトランプの政策立案者のバノン(だっけ?)の発言は、この「ショック・ドクトリン」という書籍を思い出させる。

以前より感情的になっている一方で、本来専門的な内容である統計やファクトフルネスの書籍が売れている。

「統計学が最強の学問である」という書籍は、ベストセラーになった。

それだけ統計が一般の需要に応えたとも言えるし、それだけでなく、本書が統計という数式や図式の世界を、分かりやすい言葉を中心に書き切ったという点が、広く読まれた要因になっていると思う。

行、列の途中のNaNの削除

ExcelからPandasに読み込むばあい、NaN(欠損値)の処理に手間取ってしまう。

きのうのブログでは、NaNが一列、一行の場合の処理の方法を書いてみた。

NaNが一列、一行の途中にある場合、どう処理したら良いだろう。

このへんは、だいぶ、なやましい。

まずはExcelのデータを作ってみた。



以下、Jupyter Notebook。

ExcelのデータをPandasで読み込む。

import pandas as pd
table=pd.read_excel(‘fullna.xlsx’)
table


table.dropna(how=’all’).dropna(how=’all’,axis=1)

一列、一行のNaNが削除された。



table.fillna(0)



table.fillna(”)

 

Excelの欠損値の削除

Pandasをつかって、Excelのデータを読み込む際に、セルの空白は欠損値(NaN)となってしまう。

まずエクセルで、シンプルなデータをつくってみよう〜



ファイル名を fruits.xlsxとして読み込む。

以下、Jupyter Notenookでの作業となるよ。

import pandas as pd
fruits = pd.read_excel(‘fruits.xlsx’)
fruits




excelの空白のセルはNaN(欠損値)として表示されてしまう。

dropna()メソッドをつかってみる。

fruits.dropna()




うっ、なんと、データがすべて削除されてしまった。

dropnaメソッドに引数を与えてみる。

fruits.dropna(how=’all’)




行のNaNは削除されたけれど、列のNaNが残ってしまう。

dropnaメソッドを繰り返す。
引数how=’allは列のNaNの削除、how=’all’,axis= 1は列の引数、
ちなみに列の引数はhow=’all’,axis= 0もいけたりする。
要はaxis=0は行、axis=1は列を指示するんだわ。

fruits.dropna(how=’all’).dropna(how=’all’,axis= 1)

 

 

 

pandasでExcelのデータを取り扱う

Excelをつかう機会がなかった。

オレは、つむじ曲がりだ。

だから、いっそ、これから先、必要なときは、pandas(pythonのライブラリー)で読みこんで、Excel系の処理をしていこうとおもう。

以下、さいしょの手順ネ。

import pandas as pd
変数名=pd.read_excel(’ファイル名.xls’,sheetname=’シート名’

詳細は、
pandas.read_excelのチュートリアルを参照すべし

スクリーンショット

マックユーザにとって、ウィンドウズユーザーなら当然ともいえるキーボードの「windows キー」が珍しい。

たぶん、マックの「commandキー」のような役割をするんだろうよ。

げんざいは、もう出来たりするだろうけれど、いぜんwindowsはコマンドで、スクリーンショットができなかった。

そのときは「ほんクソOSだわ」とおもったっねぇ。

マックのばあい、全体のスクリーンショットは「shift」+「command」+「3」でいける。

範囲を指定するばあいは、「shift」+「command」+「4」となる。

ただし、たとえばブラウザーをスクリーンショットする際に、パソコンの画面に収まりきれないときは、下にスクロールした範囲までスクリーンショットできない。

もうできないと思い込み、あきらめていた。

がしかし、この機能はマックに付随するものであり、ブラウザーはブラウザーなりの機能をつかえば出来ることを、きのう教わった。ありがとう。

Chromeのばあいネ。

 

1.「option」+「command」+「I」 //デベロッパーツールが開く
2.「shift」+「command」+P //Chromeの、通常では馴染みにない、いくつもの機能が選択できる。すごい!
3.その中にscreen shotの機能もある。
「full size screenshot」で(画面に表示仕切れていない)ウェッブページ全部を写せるし、
「capture area screensot」では範囲を指定しながら、ちゃんと下へスクロールできる。

Firefoxなら、

 

アドレスバー横のハンバーガーアイコン > スクリーンショットにて、件案のスクショができる。こちらの方が、かんたんネ!

自我について、かな?

村上春樹のミリオンセラー「多崎つくる」は、漱石の「こころ」から100年のちに発表されている。

こころと自我は、どうちがうのか、うまく書けやしない。仮に、こころと自我は同じ、ということにしてしまおうか。

漱石と村上春樹は自我を描く作家として比較される論評がある。

それを読んでいると「そうかなもな」と思ったりもする。

漱石の描く「自我」は、わりとモダンでしょう。

ここでいうモダンとは、自我と倫理は関係していて、それは、こころの中心にある。中心から外れていくことに、主人公たちは悩むという、ま、そういうかんじ。

一方の村上春樹の小説に描かれる自我は、中心がないように、ふるまう。

極端な、わかりやすい例としては(ひとりのなかに、なんにんも、じぶんがいる)ドッペルゲンガーが現れるカフカ少年だろう。(「海辺のカフカ」)

「多崎つくる」は好きな小説である。何度も読み返している。

先に村上春樹の小説には、自我には中心がないように、ふるまうと書いた。

「中心がないように、ふるまう」という書き方がミソで、たとえばデビュー作の「風の歌を聴け」をみよ、

ラストシーンで主人公は神戸の港で泣くじゃないか。じつは中心があったりして。ラストに揺り戻しが起こり、泣いてしまうんじゃない ?

ま、これを、ひとことで、喪失感、と言ったりする。

タイトルが長いので「多崎つくる」と書いてしまったけれど、

「多崎つくる」の正式のタイトルは、「色彩を持たない多崎つくると彼をめぐる巡礼の旅」だ。

「風の歌を聴け」のラストシーンでは主人公は泣いたが、

この小説では、喪失感を取り戻すまでのストーリーが描かれている。

最後の、フィンランドにいるクロに会いに行くシーンは、とても好きな描写なんだ。

自我について書くつもりだったのに、どうも、ちがうことを書いているようで。ま、でも、遠からず近からずなんだけれど、ね。

ところでチベット仏教では、自我はない、という。意外なんだなぁ…