井原西鶴は「世間胸算用」を書いている。ということは、少なくとも元禄時代には「世間」という言葉があったことになる。

「世間」に似ているが「社会」はどうだろう。

たぶん、これは明治以降、加藤弘蔵、西周、福沢諭吉といった言葉の先達たちが、Societyの日本語として、仏教語や漢語のなかから「社会」をピックアップして当てはめたか、

あるいは、創作したんだとおもう。なにを言いたいのかと言うと、

日本には、もともと世間は、暮らしのなかに知らず知らず息づいていたけれど、社会というものはなかったという疑念だ。

だから社会に関連した言葉も、なんだか、わかったようで、わからない感じだ。

たとえば、コミットメントという言葉がある。

日銀の黒田総裁は2年以内に実質金利を2%上げるコミットメントをしている。

しかし、じっさい5年経っても実現はしていない。記者会見で、6回くらい達成時期を延長しているんだぜ。

なのに、いまだにコミットメントという言葉は生きているようだ。

約束なら「おいおい、それは、いいかげん約束違反だよ」って言えそうだけれど、コミットメントだと、なんか破ったような、破られていないような感じがしてしまうわけで。ねぇ。