明治時代に国が開かれ、西欧のモノが多く入って来ただろう。モノは、目のまえにドンと置かれれば「あ、こういうものネ」というぐあいな、そのような実感はあるだろう。でも、法律の体系や哲学といった西欧の抽象的なことがらに際しては、ちゅうちょしただろう。そもそも、それを説明するための言葉さえ、日本には存在しなかったわけだから。

『日本漢語と中国』(鈴木修次)には、西欧の概念が、日本と中国ではどう言語化されていったかが、書かれている。

日本では、西欧の概念を広めるにあたっては、加藤弘蔵(弘之)、西周、それに福沢諭吉といった人たちが知恵を絞った。ちなみに、この三氏は幼少のときに、滝沢馬琴を読んだという、そんな世代の面々である。江戸の黄表紙や漢文から西欧の文献までその読書量は、尋常ではなかっただろう。たぶんね。

日本語化にあたっては、漢文から引用した言葉をあてたケースが多かったらしい。権利、観察、視察、実際、実験、経験、実証、真理、論理、形而上、形而下、演繹、帰納、宗教、自由といった言葉たちである。

で、権利、観察…といった言葉を、一つひとつ見つめてみると、これが、ぼんやりしてしまうんだなぁ。それは、もともと西欧にしかない概念を、さらに、中国の概念が言語化された言葉(漢文)からの引用で、まかなかわれたからだと思うんだなぁ。

ところで、マーケティングはアメリカがお手本になっていることもあって、もともとカタカナの用語が多いんだけれど。ネットが普及してきて、さらに新しいカタカナがお目見えしているよね。例をあげてみます。

アクティブユーザー、セッション、ページビュー、インプレッション、コンバージョン、ネイティヴアド…..。

ま、いずれにせよ、海外からの概念を使うときは、ちょっと立ち止まってみる必要があると思うんだね。自分なりに、こなれていないものは使わないというのも、いいよね。net_blog2