広告の売り上げランキングには、電通、博報堂、アサツーDKといった既存の広告会社が並んでいる。

しかしグーグルの売り上げの9割は広告料だと言われているし、そのほかにも、フェイスブック、ヤフーなども同様であることをかんがえると、従来の広告の売り上げランキングには不満を持っていた。

不満を持ってい「た」と、あえて過去形で書いたのは、ついこのあいだ、そのかんがえを修正したからである。

「広告」という言葉があるせいだろう。

あたかも広告という領域があって、線引きされているようだけれど、じつは情報産業のなかに含まれている広告的なことを広告と言っているだけである。まぁ、こうである。

そうおもったのは、梅棹忠夫の情報産業論のおかげである。農業、工業、情報産業というふうに、生物の進化論のように社会も進化しているという、例のあれである。

この論が書かれたのは、50年ほど前である。すでに工業から情報産業に比重は移っていて、そのトップランナーが、いまやグーグルやフェイスブックなのである。このよにおよんで、あえて広告などという必要があるのか ? (ないだろう)

ずいぶん前からこんなことを、かんがえている。ほんらいの自然の姿は目に見えないものが本質だと思っていて。それでも人が、かたちのあるものに、こだわるのは、脳の特長がそうさせているからである。脳は、昨日みたものが、きょう違うものになっていることを嫌う。おなじであってほしいと願っている。

養老孟司さんが「バカの壁」で言っていたことだけれど、人間の細胞は何ヶ月間ですべて入れ替わるそうだ。それでも脳は、じぶんのアイデンティティを保つために、いまのじぶんを、過去のじぶんは同一であるよう認識したがるらしい。

えーと、ずいぶん、話がそれてしまった。広告的なことを含む情報産業について書いていたんだっけ。

言いたいことは、社会が農業、工業、そして情報産業に、その比重を移していくにしたがい、アルゴリズムやソフトウェア、それからアイデア、信用、やさしさまで、ものとはちがう、目にはみえないものが大切になってきているこれは、ほんらいの自然の姿に近づいているという。ま、そんなことを言いたかったんだね。