「メモでもノートでも、あとから自分で見てわかるように書かなぁあかんわな」(梅棹忠夫 語る)

 

「そう、写真では細部の構造がわからへんのや。目で見て構造をたしかめて、その構造を図に描くんやからね、ようわかる」(梅棹忠夫 語る)

 

(まだコンピュータが珍しい時期に、高額のコンピュータを導入するが、そのさいに)
「供給してみい、そうしたら需要がでてくる」(梅棹忠夫 語る)

 

「知的生産とは、知的情報の生産であるといった。既存の、あるいは新規の、さまざまな情報をもとにして、それに、それぞれの人間の知的情報処理能力を作用させて、そこにあたらしい情報をつくり出す作業なのである。それは単に一定の知識をもとにしたルーティン・ワーク以上のものである。そこには多少ともつねにあらたになる創造する要素がある。知的生産とは、かんがえることによる生産である」(知的生産の技術)

 

「カードをかくのは、そのことをわすれるためである。わすれてもかまわないように、カードにかくのである。標語ふうにいえば「記憶するかわりに記録する」のである。あるいは「頭にいれずに、カード・ボックスにいれる。その点、カードはコンピュータに似ている。コンピュータが、人間のかわりに機械が記憶するのである。コンピュータも、人間の変わりに記憶するのである。いわば、忘却の装置である」(知的生産の技術)

 

「カードは。わすれるためにつけるものである。このことは、カードのかきかたに重大な関係をもっている。カードにかいてしまったら、わすれてよいのである。そこでカードにかくときには、わすれることを前提にしてかくのである。つまり、つぎにカードをみるときには、この内容について、きれいさっぱりにわすれているもの、というつもりでかくのである。したがって、コードなしの記号や、自分だけにわかるつもりのメモふうのかきかたはしないほうがよい。一年もたてば、自分でもなんのことやらわからなくなるものだ。自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、ということをわすれてはならない。」(知的生産の技術)

 

「カードは、他人がよんでもわかるように、しっかりと完全な文章でかくのである」(知的生産の技術)

 

「分類法をきわめるということは、じつは思想に、あるワクをもうけうということになるのだ」(知的生産の技術)

 

(読書のカードつくりにかんして)
「つまり、わたしにとって、おもしろいことだけであって、著者にとって、だいじなところは、いっさい書かない。なぜかといえば、著者の構成した文脈は、その本そのものであって、すでにそこに現物として存在しているからである。著者の文脈をたどって、かきぬきやらメモをつくっていたのでは、そっくりカードにうつしとるようなことになってしまって、むだなことである。必要なら、その本をもういっぱんみたらよいではないか」(知的生産の技術)

 

「おなじように、文明の進歩とはなんであったか。それは文明のなかの可能性の展開ではなかったか。ひとつの可能性が確立されたとき、あたらしい活動がはじまるのである。それはかならずしも、なにごとかを目的とさだめてうごいてきたわけではない。人間社会における情報もおなじであろう。印刷技術や電気通信技術の確立によって、人間の情報活動がいっせいに展開したのである」(情報の文明学)

 

「紙は工業製品である。電気通信機械もまた工業製品である。これらの工業生産物の情報に対する汎用性にたって、情報産業は成立したのである。もし工業製品が情報の内容にいちいち合目的性的に対応していたら、とうてい情報産業は成立できなかっただろう。情報の精密さにくらべれば、工業製品というのは、まことに粗雑なものである。情報は工業製品の粗雑さのうえにのることによって、工業時代の成果を存分に利用することができたのであった」(情報の文明学)

 

「情報の、あるいは情報産業の前芽的なものは古代からあった。しかし、情報が巨大な量をもって流通し、伝達され蓄積させるためには、それなりの装置と資材が必要であった。それを用意する技術は、ようやく工業時代の後期において開発されたのである。工業家、あるいは工業技術者たちは、これらの工業成果を情報時代のために開発したとはおもっていなかったかもしれない。それはまさに工業の時代の成果があるとおもっていたかもしれない。しかし結果はあたらしい時代を用意することになったのである」(情報の文明学)

 

以上、梅棹忠夫先生の著作より抜粋させていただく。