統一の作用(一の体系)が働いている間は、全体が現実である。
単一な現れだけれど、この一刹那を過ぎると、とらえ切れないほど複雑になってしまう。
なので、抽象化されてしまう。
内側に抽象化されたものは主観と言われ、外側に抽象化されたものは客観と言われる。
これは、「善の研究」の個人的な理解だ。
当時は、意識の流れを描いたジェームスが流行っていたらしい。西田幾多郎の言う「純粋経験」は、そのへんから拝借した言葉みたい。
もっとも、西田は禅に通じた人らしく、同じ「純粋経験」でも内実は違うのかも知れない。鈴木大拙同様、禅をやった人の言葉は門外漢にとっては(オレのことだけれど)とらえどころがない感じね〜