「インタビュー」を再読した。
これまでもインタビュー関係の書籍は何冊か読んでいる。
本書はインタビューに関する著者の肉声で綴られている。その声はインタビューという行為に留まらず融通無碍に伸縮してゆく。
本書について要約しようと思ってもみたけれど、散文詩のような一冊になっており、僕の能力では、それは叶わない。
印象的な文章はそのままノートに書き写している。
ここで引用し、それに対して自分なりに解説したかったけれど、本書に対するリスペクトする気持ちもあり、そういうことはやらない(もし自分の文章が引用されていたなら、うれしい気持ちもあるが、ちょっと引っかかる感じもする。信頼関係がやはり大切だよね)
お金は暴力的だ。といっても、もちろん、お金自体が暴力を振るうわけではない。お金を介して、時には暴力的な振る舞いが観察されるというわけ。
「コピーライターというのは、企業の代わりに文章を書く職業である」
便宜上、そう定義づけておく。
企業の考えをうかがって文章を作っていくのは必然となる。
そのことは了解できるけれど、その際に、こちらの視点を提案しながら、まとめていくことは経験上少ない。
先方の意見を承り、その通りにきれいにまとめることが余儀なくされる。
しかも通常、企業との間に広告代理店が入るので、企業の意向なのか代理店の移行なのか、ま、言ってみればカオスの状態で仕事を終えるという。
このような状況ながらも仕事をするのは、お金が関係しているからで、しかも、そこには知らず知らず、十分暴力的でもある。
これは何も広告だけでなく、他の業界でもありそうだし、自社内の粉飾決算やデータ改ざんも潜在的な企業内の暴力が関わっていそうである。
「インタビュー」では、その暴力性についても触れられていて、それでも筆者は企業からの発注ではなく自主的な取材を行なったり、出版社や企業からの仕事に際しては(たぶん)自主的なポジションを取れる方だとおもう(じぶんの意見を言えたり、ときには考えが違うことが分かり途中で仕事をボツにできたりするかもしれない)。
インタビューではお金を出す側の装飾、支配、ときには捏造への加担もしかねない。
ただし、それは宿命かと言えば、いちがいに、そうとは言えないなどと、さいきん思っている。
それは「インタビュー」から得たインスピレーションもあるし、それからもうひとつSNS、とりわけYouTubeの可能性もある。
YouTubeには広告が挿入されるが、それは、当該映像とその広告主は没交渉となっている。なので従来のインタビューのように、それに対して口を出す広告主は存在しない。気を使うのなら、YouTubeの規約に抵触しないかどうかという点だけだ。
たとえば「街録チャンネル」はインタビューの変革だとおもうんだよねぇ。