一般的には知られているはずもなけれど、
「コピー年鑑」という年鑑がある。
コピー年鑑のコピーは、複写ではなく、コピーライティングを指している。
年鑑というくらいだから、1年に1回、出版されている。
僕の生まれた頃から始まり、現在でも続いている。
誠心堂から、現在では宣伝会議から出ている。
もちろん(そんな時間も気力もないので)全巻に目を通すことは出来ない。
なので期限を区切って、各巻に目を通してみた。
70年代終わりから80年代前半までの年鑑は明らかにキラめいている。
この時期はコピーライターブームと、ほぼ時期が重なる。
じつは、このことを実感するため「コピー年鑑」をめくったりして。
80年の年鑑のテーマは「コピーは僕だ」である。
それを受けて、スター級のコピーライターが一文を寄せ、さらに座談会も開催されている。
ただし(たぶん自分にしかかけないコピーと言っている)「コピーは僕だ」というキレのあるフレーズに対して、その反応は、むにゃむにゃしている感じ。いちばん輝いていた時期、しかも最前線にいた人たちなのに。
で、このことは僕なりに、もっと消極的に言えば「じつはコピーって、誰でも書けるよねぇ」と言ってもみたいわけ。
さいきんは、ネーミングやキャッチコピーを必要とする企業あるいは個人が、ランサーズやクラウドワークスといったプラットフォームで、それらを募集している。
そして、案件をみた人は自由に応募できる。応募者は(たぶん)コピーライターというより、どちらかと言うと、懸賞を当てる感覚での応募となっている。
この感じについて、個人的にどう思うか..?
「コピーって誰でも書けるよね」なら、むしろ、こちらの方がデフォルトかもしれない。
少なくとも打ち合わせすることもなく、概略しか書かれていないネット上の件案なので、なおさらコピーライターであってもなくても、あまり関係ないように思えてくる。
そうなると懸賞と同様に「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的に、いくつもの案件にドシドシ応募した方が確率上がる。
で、もうこうなって来ると、これは人がやるより、AIに任せる業務になってゆくと思っている。
人がやることは、AIやブロックチェーンといった最新技術でも出来ないこと、いうのが僕の将来の見立てだ。
となると、ハナシをもとに戻して、「コピーは僕だ」的な言い方は、当時とはまったく違う文脈で、比喩的に考える余地があるんじゃないかしらん。