ひさしぶりに村上春樹を読んでいる。「騎士団長殺し」だ。
村上春樹の小説は、ひとつをのぞけば、ぜんぶ読んでいる。
そのほか、すべての小説を読んでいる作家は夏目漱石くらいである。
そういうことが関係しているのかもしれない。
村上、夏目を、くらべてみたくもなる。
ふたりの作品にはエゴが、えがかれている。これは、なにも、ぼくが思いついたことではない。だれかが、どこかで書いてあるのを読んだんだろう。
そもそも、エゴがわからない。 暴力性なら、ちょっと感じがわかる。ふたつは、なんとなく関係しているでしょう。
オッケー、「騎士団長殺し」に戻ろうか。
上巻を読み終えて、みっつほど、感想がある。
ひとつは、場面を説明しているダマのような箇所が気になったこと(いままでの小説で、そんなことは気にはならなかった)。
ふたつめは、登場人物・免色(めんしき)の容貌やふるまい、そしてシチュエーションが、ギャツビーとよく似ていること。
みっつめは、小川が暗渠(あんきょ)化し、路がアスファルトでふさがれていても、その下には暴力性が流れている。そんな印象だ。
そうおもうと、ほかの作品、たとえば「海辺のカフカ」も「1Q84」も、暴力性がひとつのトーンになっているような気がしてくる。
ひるがえって、漱石の「こころ」でさえ、暴力性という見方ができはしないだろうか。
もちろん「こころ」は、先生の心の変容がテーマになっているとおもうし、漱石の生きた時代に、暴力性というコトバ自体あったかどうかも定かじゃない。
ただ、すくなくとも、先生とKの関係には暴力性がなかったのか、とか、
乃木稀典の自決にあわせるように自ら命を断った先生の、その周辺には、暴力性は、たゆたっていなかったのか、とかは、
現在から100年前の作品「こころ」に放射して、解説できそうな気もする。
ま、いずれにせよ、「騎士団長殺し」の続きを読んでみよう。どのような暴力性を読みとれるだろうか(あるいは、見当ちがいかもしれないですねぇ)。