なんとなく、世界は暴力的になっているような気がする。
そして時代が下る、つまり最近になればなるほど、暴力的なことは増えているような気もする。
さいきん、なにかと話題の「ファクトフルネス」を読んだ。スティーブ・ピンカーの「暴力の人類史」も読んだ。
両書には、暴力による死亡率は、むしろ減少していることがデータをもとに示されている。
そのほか「ファクトフルネス」には、合法的な奴隷制度、児童労働、飢餓、火災による死者数、天然痘なども減少していて、時代を追うごとに、世界が良くなっていることも示されている。
ま、直感的なことは、よく間違うし、データによる統計をしっかり見ようという教訓があったりするわけだけれど、
ひとつ気になる点もある。
「ファクトフルネス」では、世界を先進国と後進国の2つに分けるのではなく、レベル1、2、3、4に分類して見ている。
レベル1とは、飲み水を探しに遠くまで歩いたり、虫を生で食べたりするような生活だ。映像の影響力は大きく、そのような映像を見る機会があると、世界には、そのような暮らしをしている人が多いような気もする。しかし、レベル1の生活を送っている国は、年々、減少している。
逆にレベル4は、たとえば、電動ハブラシを使っているような、たとえば日本などが該当する。
言うまでもなく、レベル1や、2、3は経済の伸びしろが大きい。年率で7パーセント伸びているとしたら、複利なので、10年後には、経済は2倍になるでしょう。
それに対して、日本は、予算の半分を国債でまかない、日銀が金融機関から間接的に国債を購入し、意図的に巨額のマネーを供給しているにも関わらず、毎年、1パーセントくらいしか伸びていない。
たしかに、世界的に貧困は少なくなっていくだろう。でも一方の日本は、経済の伸びしろが小さすぎて、レベル1、2、3といった国に追い上げられ、むしろ相対的に貧困になっているんじゃないのか、と思ったりもする。
アベノミクス、じっさいは日銀の異次元の金融の量的緩和により、たしかに需要は喚起されたとおもう。需要は公共投資で作るというふうに教わった身としては新鮮でもある。
ただ、げんざいの政策の難点は、金融により需要は作ったものの、新しい産業や企業が生まれていない点にある、とおもう。そうしないと、国と日銀は借金だけ増え、東南アジアやアフリカの国から、どんどん追い上げられ、窮屈になっていくでしょう、たぶん。
好意的にみて、日銀の量的緩和は、あたらしい産業や企業が生まれるまでの時間稼ぎにはなるとおもっているけれど、じっさいは、どうなんだろうねぇ。