せんじつ、漱石について触れられていた。題材に上がっていたのは「道草」だ。
主人公は、なんどとなく義父からお金の工面を受ける。もう、これ以上、関わらないよう書面を書かせる。だが主人公はイヤな気持ちになる。その後をおもい、憂鬱になる。
で、「あ、そっか」と思ったわけよ。
漱石は、持病の胃潰瘍の療養のため滞在した修善寺で、大量の血を吐く。生死をさまよう。その後、書かれた小説は、いっそう陰影を深めていく。
おそらく「道草」は、「こころ」のあとに書かれた小説だと思う
「こころ」では、先生はKの自殺に死後何十年も、さいなやみ、自身で最期を迎えてしまう。その原因は謎とされ、個人的にも、ずっと謎である。
けれど、先日の話より、漱石は思い込みを表現している、というか漱石自身、そういう心証を持っていたのか知れないと、ま、そのようなことを、思ったりしたわけ。
その思い込みは内省し、関係ないことまで、自分のせいだと思わせる、かもしれない。
じつは、村上春樹の小説にも同様のことが繰り返し描かれている。「海辺のカフカ」では、カフカ少年のドッペルゲンガーまで現れる。
そして、村上春樹の場合は、角度を変え、アタッチメント、デタッチメントという言葉で解説されていたりする..よね?
(ひとくくりにされることに、本人は了解されないと思うけれど)漱石や村上春樹は、エゴを描く作家だと言われてる。で、エゴと、思い込みは、どこか、つながっているいるんじゃないのかねぇ。
だれか、思い込みの視座からAIを解説してくれないかなぁ。