漱石と村上春樹を比較するアイデアがある。じぶんで思いつくわけがない。なので、どこかで、そのような内容に触れたんだろう。
じぶんなりに、解釈してみたこともある。上手に書けるようになりたいとおもって、このブログで、なんども同じ内容を書いてきた。きょうは、それについては、書かない。面倒くさくなってしまった。また。それは、先日、吉本隆明の「漱石を読む」を読んだせいかもしれない。
「こころ」は、なんどとなく読んできた。後年に至るまで抱き続けてきた、Kに対する先生の、こころの有り様は謎である。ふつうの感覚なら、そのようなことはことも、時間とともに、しらずしらず薄らいで行くものでしょう。ましてや、それに、さいなまれて先生まで、みずから最期を迎えてしまうのも謎なのである。
吉本隆明の、その著作には、それについて解説がなされている。漱石は性を同質に見ていたという説だ。
「こころ」の先生は、はモダン(古風な)こころを持っていて(それは倫理観と言っても良いかもしれないけれど)そこから外れたため、元に戻ろうとして、それが鬱屈している、という仮説を、僕は持っていた。がしかし、吉本説はまったく、ちがう、150度くらい、ちがう。そして、同氏の説に圧倒されかけている。本書には、そのほか、「三四郎」の宿命説、「道草」の文体についての解説がなされている。テキストだけで、これだけ読めてしまう吉本隆明は、すごいなぁ。