仏教(古代)の未来性について

折をみて、ダライ・ラマの著作に触れている。それは、漱石を読んできて、満足しない何かが、そこにはあるから、だとおもう。

それは、じぶんでは言葉にできない。

長くなるけれど、吉本隆明の言葉から引用してみる。

「たとえば、仏教を例にとりますと、仏教の考え方というのは、だいたいアジア的段階あるいは古代的段階にある。それはアジア的段階、つまり原始時代から古代に移り変わる過度的な段階で完成された思想だと思うんです。原始社会から古代的な社会に移っていく段階において、仏教の思想というのは普遍的な意味があった。たんに東洋の地域だけで流布されたというんじゃなく、それは当時、世界思想として意味があったわけです。しかし、その思想のなかには、現代の考え方からすると迷蒙が含まれている。現代の考えからすれば、それは迷蒙じゃないか。そこには、精神病理学的な現象に還元できるような考え方が含まれているんじゃないかと。そういう点があるわけです。

しかし、同時に、そのなかには現在では人間が考えることもできなくなってしまった重要な考え方が含まれている。たとえば死の世界たいせつにすることによって、生きることを大切にするとか、共同体のなかのひとりの人間が死んでしまったとき、共同体のあらゆる人がそれを補ってやる。それはさまざまな形而上的な意味で補ってやり、もちろん物質的な意味でも補ってやる。そのようにして欠落を満たすわけです。現在では、そういう相互依存みたいな関係はまったく失われてしまったわけですが、これは非常に重要な考え方で、そういうものもあるわけです。

つまり迷蒙であるという問題と、今では失われてしまったけれども、そになかにある、人間にとって非常に重要な感情、情緒、相互扶助の行為を、現代以降どうやって生かすことができるのか。そのような考え方でもって、古代に完成した思想と近代以降の思想を関連づけていく。その課題じたいが、未来の問題になるように思います。それは未来の問題を解くために、きわめてたいせつなことであると僕自身は考えています。迷蒙であるがゆえに欠陥をもっているけれど、そこには現代では失われた重要な感情がある。そういうものを現代に復元していくしかたというのは可能なのか。あるいはそれは可能ではなく、もはや過ぎ去ってしまったのか。そのことについて考えて解決していくことは、未来に問題を受け渡すうえで非常に重要な鍵になると僕は考えているわけです」

(「吉本隆明 質疑応答集 人間・農業」/ 論創社 p120〜121)

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!