「エゴ」の引き継ぎ

「柴田元幸と9人の作家たち」は折をみて何度か読み返している。

「テキストを1回読む」派と、「何度も読み返す」派がある。僕は後者となる。

どういうテキストを読み返しているのかと言えば、それは、ただの気分しだいだ。ただし、再読するのは、じぶんにとって(大切と言っても良いかもしれない)何かがあるのかも知れない。

さて、本題に入ろう。

柴田元幸さんの、村上春樹へのインタビュー記事の話である。

先日、このブログで「福翁自伝」(福沢諭吉)と「サードドア」(バナヤン・アレックス)から、交際について書いてみた。

日本的な交際、そして西欧的な交際。そして両者とはまた違ったアプローチがあるかも知れない、というところで尻切れになってしまった。

じつは、そのアプローチについて、柴田さんによる当インタビュー記事を敷衍させて書いていくつもりだった。

けれど、その部分は抽象度が高く、うまく、じぶんなりに言葉にすることは出来なかった(現状では、あきらめたのであった)。

「あ、こんなこと書いてあったのか」という新発見があった。このテキスト、何度も読み返しているのにねぇ。抜粋させていただきます。

「もう一つ、僕が書きたかったのは、カフカくんが図書館にたどり着いて、そこで暮らすという行為です。そこに大島さんがいて、佐伯さんがいて、二人ともまともなんだけれど、つまり異界的ではないけれど、深く失われた人ですよね。その失われた人たちがカフカくんという新しい可能性に、何か大事なモノを引き渡していくという行為を書きたかったのかもしれないですね」(「柴田元幸と9人の作家たち」/271ページ)

「深く失われた人が、新しい可能性に引き継いでいくこと」。

これは(たぶん)初期の村上作品には見られず、「海辺のカフカ」「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」あたりで読めるとおもう。

話は急展開するけれど、漱石の「こころ」も、思い浮かぶ。

「こころ」では、先生が主人公に手紙というスタイルにて、「深く失われた人が、新しい可能性を引き継いでいく」けれど、村上作品では、それは抽象的なストーリィになっている。

漱石にについては、こちらで語っています。「深く失われた人が、新しい可能性に引き継いでいくこと」と、ちょっと関係のある内容。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!