それしかない。まるで空気のように。
呼吸するように、ふだん意識さえしない。
しかし、それに変わる強力なものが出てくると、僕たちは、それを意識するようになり、やがて、それに対し息苦しくなってもいく。
きょうは、ファイルについて書いていこうと思う。
コンピューティングの際に、なにげに使っているファイル。
作業をひとまとめにし、作業名(ファイル名)を付けていくアイデアはUNIXで初めて取り入れられた。
UNIXのリリースは1969年なので、もう50年以上有効なアイデアとなっている。
ファイルにより、僕たちは、作業の続きを探す手間が節約できている。
しかし一方で、扱う情報量が多くなるにつれ、今度は、ファイルを管理し、探すのも大変になってきた。
多くのデータ(プログラム)を扱い、しかも共同作業するプログラマーなら、ローカルではGit、リモートなら、たとえばGitHubを利用しているでしょう。
ただし、Git系は慣れるまでの学習コストが、けっこうかかるし、ましてやコンピュータを、プログラミング以外の使い方をしている人にとって、Git系を覚えるコストパフォーマンスは極めて悪い。
オッケー。きょうの仮説はファイルを使わなくなっていく可能性についてだ。
その前に脱線する。
僕は一日に3つくらいファイルを作成している。
1年にすると、文章など、なんらかのファイルを1000個作っている計算になる。
仮に、1つのファイル作成に30分かけているとしたら、なんと年間500時間も使っていることになる。
作成するファイルの数が削減できれば、それだけ、他のことに時間が使える。
で、話を元に戻す。
ファイルを使うのは、そもそも情報を保存するからだ。
逆に言えば、保存しなければファイルにしなくても住む。
そうするためには、その場で解決してしまうのが何よりだで、
記憶に自信がない人は、紙にメモすると良いと思う。
ただし紙のメモは、パソコンと違って「検索」ができない。
それはそうなんだけれど、思い浮かべてほしい、1年のうち「検索」する機会は、どのくらいあるだろう。
あるいは、誰かと情報を共有していれば、その誰かに聞いた方が早かったりする。
ちなみに、何か調べる時は、情報をファイルでまとめるより、その時々でグーグルで調べた方が、はるかに効率が良い。そのへんは、ひろゆきは参考になるだろう。