ぼくたちは、いまや、自由にメディアを活用できる。「自分の好き」を表現できる。
このブログ(鶴巻事務所のウェッブサイト)では、ほぼ毎日、なにかしらの文章を書いている。ただし、これは「自分の好き」に限り書いている、わけではない。むしろ習慣と言っていいんですねぇ。
一方、好きで、伝えたい場合は、noteというメディアプラットフォームに書いているし、映像ならYouTubeを利用している。
YouTubeでは宮沢賢治の「無声慟哭」を朗読している。
底辺ユーチューバー(俺)としては、閲覧回数が多い。うれしいような、恥ずかしいような気持ちだ。
最近では「青森挽歌」が気になり出していて。それについて、どう表現すれば良いのか、参考に「宮沢賢治の世界」(吉本隆明/筑摩選書)を再読している。
◎「青森挽歌」は、現実の光景→幻想→死の世界→死後の世界と展開していく。死後の世界について、宮沢賢治は肯定しながら否定しながら、となっている。賢治の詩では、たとえば(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)のように、カッコに入れた言葉が、言葉の流れを止めるように挿入されている。これは違う位相と言われると「そうかもなぁ」と思える。ちなみに、賢治は他にも、いろいろな記号で言葉を囲っている。正確に使い分けられている気がする。プログラミングとして、クラスを書いて、そこからインスタンスを作り、アウトプットできるかもしれない。誰かやってみないかなぁ。