「感想」(小林秀雄)

鈴木大拙の「仏教の大意」を読了した。

下知識がないため、理解できない所が多々あった。

しかしページが少ないため、なんとか最後まで読むことができた。

ダライ・ラマの著作で触れられている仏教的なことと、まったく違う点のないことが確認できた。

その際に「小林秀雄全集 別巻Ⅱ 感想」を併読していた。

小林秀雄によるアンリー・ベルクソンの解説となっている。

「仏教の大意」と同様、難解である。

こちらはページ数が多いこともあり、1/8程度でページを閉じてしまった。

ちなみに、「もう、このへんでいいや」となったのは、ベルクソンの健忘症についての解説である。

ベルクソンは健忘症について綿密な研究をしている。

その中で、リボーの、健忘は固有名詞→普通名詞→動詞の順で進むという説の解説がなされている。

ベルクソンによると、健忘は記憶そのものが破壊されることでは決してないという

では、なぜ健忘症が起きてしまうのか。

それについて、小林秀雄はベルクソンの言葉を引用しながら解説する。

「(記憶を)再認識するためには、記憶自体の行動が必要なのだ。現在は未来を目指す切迫した行動の場である。(略)これが現実の行動に結びつこうとすれば、記憶全体の、精神全体の、現実生活に向かう或る態度なり緊張なりを要する(略)記憶を喚起する為には、精神の或る態度が必要であり、而もこの態度も又身体の態度に接合していなければ…」(p51〜52)

この文を熟読して分かるとおり、小林秀雄はベルクソンの解釈を、小林特有の文学的な表現で語っている。

そう思いながら、読んできた以前のページをめくってみると、そのことが散見される。

小林秀雄自身、この論文を失敗とし、生前出版を認めなかった。

それは、たとえば本居宣長と違い、西欧の哲学を語る限界を示していると思ったりしている。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!