「向き合う」こと

引く続き「直覚を磨くもの」から。

まず折口信夫の言葉より。

「日本では、古代に対しては、もっと考えなければならぬ方法を棄て、安易な方面だけについているという気がします。考古学で行くような形で、古典がわかると思っているのでしょう。考古学は、資料のある程度まで出揃うということを基礎にして、概論を出すのです。此の方法では、だから古典研究は成り立たないのです。其れを考えていますか知らん。又、考古学そのものについても、平安、鎌倉などの文学の背景になる平安朝とか、中世以降のものに対する考古学は割合に発達していないから、此の方面から、よい背景の供給を望むことが出来ません。此れは何と言っても偏り過ぎています。」p234

今日出海との対談より。こちらは小林秀雄の言葉。

「考古学なら調べればいい、歴史学となれば考えなくてはね。調べると考えるは全然違うことだ。「考える」という言葉は、宣長の説では「対(むか)える」という意味なのだ。歴史を「考える」とは歴史に親身に交わる言葉なのだ。「調べる」という言葉は、これとは反対の意味合いの言葉で、対象を遠ざけるいう意味なんです」(p454〜455)

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!