先日のブログで書いたように、旧統一教会が投げかけた問題には正解がないと思う。
それは、こころの問題だからだ。
その人のこころは他人からは分からないし、本人にだって分からない。
じつは、この問題が引き金になって、村上春樹の「1Q84」を再読している。
(主人公のひとり、青豆は中学生で脱退したが、彼女の両親や兄は、熱心なキリスト系新興宗教の信者だ。また一方で、オウム真理教を連想される教団も描かれている)
「Book2」(2巻目)の良さに比べ、「Book3」にはアラが目立つ、とおもう。
「1Q84」は複雑なプロットになっている。
「Book3」が、そのプロットの辻褄合わせになっている点が残念である。
村上春樹はレイモンド・チャンドラーの長編小説を翻訳している。
「羊をめぐる冒険」といったチャンドラー的な小説があり、他の小説でもチャンドラーの小説を連想させる描写があったりもする。
チャンドラーと比較して良いか分からないけれど、「Book3」は、やはり残念だ。
ハナシがそれてしまった。
旧統一教会についてだった。
こころについて知ることは不可能だけれど、その中でも有用なアプローチは小説のようなストーリィを自分で描くことだとおもう。形而上的なことを詩にしても良い。
しかし、そのようなことをする人は、ほとんどいない。
なので、その代わりに僕たちは誰かの小説や詩を読み、良い出会いがあれば共感できる。
それにしても、こころに一般はない。
旧統一教会の問題のひとつは霊感商法や献金だろう。
霊感商法とは言え、これは納得して購入したわけだし、献金は、通常、お寺さんへのお布施のようなもので、大小あるものの、それは個人の任意だと割り切っている。ほかの人が大金を支払っても、それは、その人の任意だ(それでも、それについてアレコレ考えたり、言ったりするのは、なぜだろう?)
この問題については法的な手続きで処理した方が良いと思っている。
繰り返しになるけれど、買物や献金は個人の任意だ。それでも後日になって「やはり返してほしい」となった時は、法律のもと、返してもらった方が良いと、まぁ、そう思うよ。