社会の中に偏在している。空気のように気づかないもの。それは、ときには悪かもしれない。
表現者なら、それを表現する。小説家ならストーリィに、芸術家ならアートに。
しかし、日ごろ日常に追われている僕たちは表現する時間が作れない。表現する術を身につけるにも時間が必要だ。いや、それ以前に表現することさえ思いつかないだろう。
「インタビュー」(木村俊介)を再読している。
インタビューを多くやってきた僕にとっての参考書である。
読みながら、取材者は、取材対象者それぞれの生活の中で限界に(ときには悪に、さいなまれているながら)生きている当人に変わって、肉声を引き出せる可能性があると思ったりもする。
山上容疑者の一撃は結果的に統一教会の問題を顕在化させた。
手段については留保されるけれど、ひとりの行動が状況を一変させた珍しいケースと言える。
東芝のコピーライティングを一時期やっていた。
そのせいもあり、現在マスコミを騒がせている当社の非上場化の動向には関心がある。
本件の遠因は当社の不正会計処理問題にある。
その概略については(たぶん)後日書くことにして、きょうのブログでは詳しく触れない。
当社の不正会計問題は、証券等監視委員会へのひとりの勇気ある内部告発者の告発から始まっている(原発に関する不正会計問題は日経ビジネスの取材チームによるところが大きい)告発者の精神的負荷は大変だったものと推察する。
こう、つらつら書いてみると巨きな対象に対して、個人の可能性もなくはない、という感じも持ったりする。