げんざい「砂の器」を読んでいる。松本清張原作の同タイトルの映画は何度も観ている。なので内容は分かっている。それだけに読みやすいし、あるいは、多くの読者を得ていることから分かるように、そもそも清張の小説は読みやすいかも知れない。
三島由紀夫は清張の作品を嫌っていた。「文体がない」とも言っていたようだ。「砂の器」を読んでいて、たしかに、そう言えなくもないと思った。
村上春樹も文体の重要性を語っていたように思う。ちなみに村上春樹の小説は作品ごとに文体の感じが違うし、また同氏の翻訳にも文体が感じられる。
翻訳された本を読んでいて「これ、いい本だわぁ」と思い、「あれ、これ、以前読んで良書だと思った本も同じ翻訳者だわ」などと、ちょっとした発見をすることがある。
それは翻訳に、その人らしい文体が確立されていて、また僕との相性も良いんだと思ったりもする。
逆に、ただ訳しただけ、しかも意味が分からないような翻訳は、おもしろくない。とくに哲学の本に多い印象だ。それなら「いっそ翻訳しないのも節度だぜ」と言いたくもなる。そもそも、それを大学で学んでいる人や研究している人は原書で読めと言いいね。意味が分からない翻訳で、一般の人まで巻き込み、時間を浪費させるのは罪だよね。