マスメディアの終焉

先日のブログでは、人気者はあなどれない、時には時代も創る、いや、それ以上に、語り継がれ伝説になり、数百年、数千年後も影響力のある存在さえなる。ま、そんなことを書いた。

じつは、ブログではそんなことを書くつもりはなかった。

広告視点で、人気者について考えてみたかったんだ。

では、やってみようか。うまくいくかしらん。

媒体ということばがある。

「媒」という漢字を使うことばとして、「媒酌人」や「霊媒師」などがある。

前者は「新郎と新婦の仲立ちをする人」で、後者は「死者と人間の間の仲介をする人」である。

では、媒体の「体」は何を示しているんだろう?

ネットで調べてみると「ものごとのはたらきをする、もとをなす存在」とある。

この文脈でいえば、媒体とは「もとになる存在と、もとになる存在の仲介をなすもの」という感じだろうか?

ま、いずれにせよ、媒体は「メディア」の訳語で、さいしょに誰かが、漢文か仏教の法典から言葉を引っ張ってきて、それを充てたにちがいない。

マス・メディアということばがある。日本では四媒体と言われる。

テレビ、新聞、雑誌、ラジオである。

いままでマスメディアは、政治や社会の変容に大きく関わってきた、とおもう。

新聞と自由民権運動、雑誌と大正デモクラシー、ラジオと…、テレビと…あれ、なんだろう?

ま、でも僕がこれまで生きてきて、テレビの存在は大きかったのだ。

物心ついたときには、テレビは空気のように当たり前の存在だったけれど、日本にテレビが導入されるころ、それに大きく関与した正力松太郎関係の本を読むと、当時の時代背景として(朝鮮戦争の頃には)米ソのプロパガンダの応酬があって、アメリカは日本人の心がアメリカから離れないようにテレビという装置を位置づけた説があったりする。

NHK党の立花党首は「テレビは核兵器に勝る武器」とまで言っている。NHKに勤務していた時代に先輩から教わったそうだ。

オッケー、ここで映像についてかんがえてみようか。

立花さんのYouTubeをみていると(たぶん意識的に)印象操作に当プラットフォームを使っている。

YouTubeに限らず、テレビも、映像というのは印象を与える。YouTubeもテレビも内容はそれほど伝わらず、どちらかと言うと印象が残る。

国を良い方向に持っていってくれるリーダーなら良いけれど、国民を煽り、結果的にたくさんの戦死者や餓死者を出てしまうことは御免こうむりたい。

だいぶ、はなしが長くなってきた。

このブログのテーマは「人気者と広告」だった。

新聞の実際の販売部数はどれくらいだろう?

というのも新聞には、いわゆる「押し紙」がある。

雨に濡れたときにも大丈夫なように、販売店は新聞社から多めに新聞紙を仕入れている。

それが、少しではない。とても多くだ。

「雨に濡れたときの備えは」は名目で、実際は「押し紙」により発行部数をかさ上げして、折込チラシ代の収入が、それだけ多く新聞社に入る。そのぶん媒体価値も上がるので、広告料も高くとれる。

たとえば朝日新聞の公表している発行部数が400万部弱。しかし「押し紙」を差し引くと、実質200万部代になってしまう。

一方、SNSやYouTubeのインフルエンサーのフォロワー数は数百万人だ。

その人たちが情報発信すると、何百万人のインプレッション(視聴)数となる。

そろそろ媒体(マスメディア)が幅を効かせる時代は終焉を迎えている。

高齢者にはマスメディアを習慣になっていて、なかなか購読を止められないが、
すでにSNSやYouTubeといった動画メディアが主流なっている。

SNS、AI、そしてオンチェーンの時代になっていくよね。





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