連休を利用して「ウェッブ進化論」(梅田望夫)を再読してみた。本書は10年以上前に書かれていて、(執筆当時からみた)今後の見通し、つまり現在を予想したイメージが描かれている。
予想というのは、おおよそ外れるよね。とくに技術について言えば、いままでとは、まったく違う技術体系が生まれるから。
ちなみに本書は執筆されたころは、iPhoneはまだ発売されていない。ツイッターも生まれていないし、フェイスブックは、まだ、よちよち歩きの時代だ。
それでも、本書はブログの可能性として、即時性や、人間関係による情報の深化を予見している。いうまでもなく、前者はツイッターに、後者はフィスブックで実現されている。
一方、本書では、オープンソースとブログによる、対エスタブリッシュメントのようなことが書かれている。こちらは、どうだろう。
まずオープンソースについて。たしかにGitHubなどオープンソースが使えたり、リクエストに応じたてコードの修正に参加できる環境は整っている。本書は技術者向けでなく、新書版というスタイルの、一般向けのものでしょう。なので、じっさいコードを見てなにが書かれているか分かるひとは、思った以上に少ないとおもう。少なくとも、オレには、さっぱし分からん。ソースコードの民主化は、いまのところ遠いよね。
ブログについては、どうだろう。まずは本書から引用させていただこう。
本書全体を貫く背骨の一つに「不特性多数無限大」というキーワードがある。一方、ネットやブログを巡る論説の多くに、不特性多数の参加は「衆愚」になるはずという根強い考え方がある。(中略)「エリート対大衆」という二重構造ではなく、三層からなる構造で、この総表現社会を見つめてみる必要がある。(中略)私は、この二つの層の間に、総表現社会参加者という層をイメージすべきだろうと考える。一万人でもなく一億人でもない、たとえば1000万人の層。(中略)「不特性多数無限大の参加は衆愚を招く」と根強く考える人たちに「百歩譲って一億人なら衆愚かもしれないけれど、1000万人だったらどうでしょう」と、私は問いかけてみたいのである(p148〜149)
じっさいに、現状はツイッターやフェイスブック、それにマストドンなど、さまざまなSNSがあり、発言しているひとは、ゆうに1000万人を越えているでしょう。では、現状はどうかというと、10年以上前の著者の意見は、理念的すぎるというか、それほど楽観的ではないというか、ねぇ。