それなのに学校では答えを前提に先生が教える。
そして中間・期末にはテストが実施される。
少なくとも僕は学生のとき、その答えに合わせようと、それなりに努力をしてきた。
僕はライターという職業に就いてから学生時代とはケタ違いに本を読み、また文章も書いてきた。
そうしているうちに識らず知らずにうちに、文章の読みに答えはなく、あくまでも読み手に委ねられている感触を得ている。
もっとも「答えがない」というのは、文章を読むことに膨大な時間をかけてきたから言えるのであって、まいにち自分の仕事に忙しい人にとっては、やは読書に答えがあると思っているに違いない。
歴史はもっぱら司馬遼太郎の本を読んできた。司馬遼太郎のファンと言ってもよい。ただし途中から「司馬さんが大量の資料を読み込んで、その理解をアウトプットしているのであって、これが歴史とい
国語や歴史には答えがない。
それなのに学校では答えを前提に先生が教える。
そして中間・期末にはテストが実施される。
少なくとも僕は学生のとき、その答えに合わせようと、それなりに努力をしてきた。
僕はライターという職業に就いてから学生時代とはケタ違いに本を読み、また文章も書いてきた。
そうしているうちに識らず知らずにうちに、文章の読みに答えはなく、あくまでも読み手に委ねられている感触を得ている。
もっとも「答えがない」というのは、文章を読むことに膨大な時間をかけてきたから言えるのであって、まいにち自分の仕事に忙しい人にとっては、やは読書に答えがあると思っているに違いない。
歴史はもっぱら司馬遼太郎の本を読んできた。司馬遼太郎のファンと言ってもよい。ただし途中から「司馬さんが大量の資料を読み込んで、その理解をアウトプットしているのであって、これが歴史というわけでないんだよねぇ」と思うようになってきた。ほかの歴史小説にも言えるのかもしれないけれど、司馬さんは、さも、その場を取材しているような書きっぷりなので、ついつい本当にあったことのように思ってしまう。ちなみに司馬さんの著作は、しばしば司馬史観と呼ばれている。
一方で、数学や物理、それからプログラミングにはツールがあり、そのツールを使った人どうしで議論され、ときには協力しあって成果物が提案される。
科学というのは反証が可能でなければならないそうで、この点、いわゆる文系の世界では、どうなのだろう?
やってはいるのだろうけれど、科学のようにクリアではなく、こちらが正しい、あちらが間違っているなりがちではないのだろうか?
一人が二人..となり、やがて、それが党派(イデオロギー)となり、最悪、戦争になりやしないか?
いま「オッペンハイマー」という映画が話題になっている。一瞬、僕も観てもいようと思ったりもしたけれど、映像は印象を残しはするが(とくに僕の場合は)観たあと「あれ? けっきょく何だっけ?」くらい、内容が残らないんだわ。
なので原作を読んでみようと思いたち、図書館にリクエストした。かなり「引き」があるようで、ほぼ全館に用意されていて、さらに順番待ちとなっている。