荻生徂徠、石田梅岩、二宮尊徳(金次郎)といった江戸時代の思想家の考え方は、中国の書物に広く深く根ざしていると思う。

ちがう言い方をすれば、その「モノサシ」で測らざるを得なかった。

ここで言う「モノサシ」は、もちろん比喩なので、実物のように目盛りが付いているわけではない。

あくまでも思想家たちの解釈による、ということだ。

ま、抽象的せよ、この「モノサシ」をで測っている限り、それを越える考えや発展はない。

越えるには「モノサシ」ではなく、今度は違うもの、たとえば「分度器」が必要になってくるわけ。

それが良かったのかどうかは、さておき、明治維新は欧米から「分度器」が入ってきたし、戦後は「コンパス」が入ってきた。それにより、いぜんとは違ったことができるようになってきたという。本日思いついたこと。つれづれなるままに。