「こころ」の言葉

本は、わりと通読している。

通読の良い点は、思い出したように再読したとき、以降、肩の力を抜いて読めるところにある。

パラパラめくって、目の止まったところだけ読むのもいい。そんな感想を持つことも出来る。

漱石の小説は、すべて読んでいる。ゆいいつの自慢である。

小説をめくると、「あ、この数行だけで、漱石のこだわりが読める」と思ったりもする。

いちばん繰り返し読んだ小説は「こころ」だネ。

漱石は、小説により文体がちがう。

「こころ」に限っては、前半と後半の文体がちがう。

後半は、暗く、深刻な文体になっている。

漱石は、ぎりぎりの言葉で書いている気さえする。

「ぎりぎりの言葉」感で言えば、宮沢賢治の詩にも同様の印象を持っている。

人によっては「それはウソだよ」という指摘をするかもしれないけれど、

ま、ぼくのばあい、それは「ぎりぎりの言葉」なんだよねぇ。

自我について、かな?

村上春樹のミリオンセラー「多崎つくる」は、漱石の「こころ」から100年のちに発表されている。

こころと自我は、どうちがうのか、うまく書けやしない。仮に、こころと自我は同じ、ということにしてしまおうか。

漱石と村上春樹は自我を描く作家として比較される論評がある。

それを読んでいると「そうかなもな」と思ったりもする。

漱石の描く「自我」は、わりとモダンでしょう。

ここでいうモダンとは、自我と倫理は関係していて、それは、こころの中心にある。中心から外れていくことに、主人公たちは悩むという、ま、そういうかんじ。

一方の村上春樹の小説に描かれる自我は、中心がないように、ふるまう。

極端な、わかりやすい例としては(ひとりのなかに、なんにんも、じぶんがいる)ドッペルゲンガーが現れるカフカ少年だろう。(「海辺のカフカ」)

「多崎つくる」は好きな小説である。何度も読み返している。

先に村上春樹の小説には、自我には中心がないように、ふるまうと書いた。

「中心がないように、ふるまう」という書き方がミソで、たとえばデビュー作の「風の歌を聴け」をみよ、

ラストシーンで主人公は神戸の港で泣くじゃないか。じつは中心があったりして。ラストに揺り戻しが起こり、泣いてしまうんじゃない ?

ま、これを、ひとことで、喪失感、と言ったりする。

タイトルが長いので「多崎つくる」と書いてしまったけれど、

「多崎つくる」の正式のタイトルは、「色彩を持たない多崎つくると彼をめぐる巡礼の旅」だ。

「風の歌を聴け」のラストシーンでは主人公は泣いたが、

この小説では、喪失感を取り戻すまでのストーリーが描かれている。

最後の、フィンランドにいるクロに会いに行くシーンは、とても好きな描写なんだ。

自我について書くつもりだったのに、どうも、ちがうことを書いているようで。ま、でも、遠からず近からずなんだけれど、ね。

ところでチベット仏教では、自我はない、という。意外なんだなぁ…