喪失感の引き継ぎについて

漱石の「こころ」も、村上春樹の「海辺のカフカ」も、とても好きな小説である。

ふたつの小説には共通点がある。

それは善悪を超えた存在により、登場人物の心が喪失していく点だ。

そして「こころ」の先生、「海辺のカフカ」の佐伯さんは、喪失した長いストーリィを文章で書きつづる。

それを書いているあいだ、先生も佐伯さんも失われた心が癒やされている。

ただし「こころ」では、先生が主人公の私に手紙を送るのに対し、「海辺のカフカ」では、誰の目にも触れないように、人を通じて処分してもらっている。

先生は、主人公の私に自分のストーリィを知ってもらうこと、言い方を変えれば、主人公の私が手紙を読んだ印象を引き継いでもらいたかったのに対し、佐伯さんはそれを拒否している。

拒否しているのだけれど、佐伯さんのそれは、カフカ少年にメタフィジカルな場所で引き継がれている。

漱石と鴎外の描くエゴについて

個人的な、乃木希典のその印象は、司馬遼太郎の小説による。

しかし旧宅邸隣地に、自身と妻が祀られる神社(乃木神社)が建立される程の人物である。少なくとも当時は、多くの人たちに礼賛されていたに違いない。

記憶では、乃木の明治帝の殉死に触発され、夏目漱石は「こころ」を書き、

森鴎外は「興津弥五衛門の遺書」を書き、以降、歴史小説の執筆に傾注していった。

「こころ」は何度も読んでいる。

最後半、漱石は、とらえどころのない心を、幾重にも変わる心の様相として描いてみせた。見事な描写だとおもう。

乃木が明治天皇に殉死したのに対し、先生の場合は謎とされる。漱石の小説では「こころ」が一番読まれている。前述の心の様相の巧みな描写、そして先生の殉死の謎が、多くの人たちに読まれるポイントになっているとおもう。

鴎外は「妄想」という短編を残している。とても好きな一編である。

「阿部一族」など、鴎外は殉死をテーマとした小説を書いている。鴎外の考える、あるいは「こころ」の先生の殉死を知る上で、この「妄想」という小文は、何かのヒントになる予感の文章である。長くなるが引用してみようか。

「自分は小さい時から小説が好きなので、外国語を学んでからも、暇があれば外国の小説を読んでいる。どれを読んでみてもこの自我がなくなるということは最も大いなる最も深い苦痛だと云ってある。ところが自分には単に自我が無くなるということだけならば、苦痛とは思われない。只刃物で死んだら、その刹那に肉体の苦痛のみを覚えるだろうと思い、病や薬で死んだら、それぞれの病症薬性に相応して、窒息するとか痙攣するとかいう苦しみを覚えるだろうと思うのである。自我が無くなる為の苦痛は無い。

西欧人は死を恐れないのは西欧人の謂う野蛮人かもしれないと思う。そう思うと同時に、小さい時二親が、侍の家に生まれたのだから、切腹ということが出来なくてはならないと度々諭したことを思い出す。その時も肉体の痛みがあるだろうと思って、その痛みを忍ばなくてはなるまいと思ったことを思い出す。そして、いよいよ所謂野蛮人かも知れないと思う。しかしその西欧人の見解が尤もだとも承服することは出来ない。

それなら自我が無くなるということに就いて、平気でいるかというに、そうではない。その自我というものが有る間に、それがそんな物だとはっきり考えても見ずに、知らずに、それを無くしてしまうのが口惜しい。残念である。」(「妄想」森鴎外より抜粋)