AIについて話すと、ケムたがられたりもする。
「人間がダメになる」「信用できない」というふうに言われる。
個人的には、そうは思っていない。
たとえばカーナビを思いうかべてみようか。
カーナビのおかげで、知らないところに行けるでしょう。
「人間がダメになる」
そーね、たしかに道は覚えないねぇ。
でもさ、遠くの、行けないところまで行けたりして。
ちゃんと、「信頼」できるじゃないの。
「信用」と「信頼」という言葉をすり替えただろうという君、スルドイ!
たしかに「AIは信用」できない、というハナシでしたねぇ。
「信用」は安心感の問題でしょう。その点、「信頼」とは違う。
でも理屈っぽいオレなどは、、「じゃ、AIは信用できなくて、自分は信用できるのか」と言いたくなるわけよ。
計算だって、じぶんでやるより、電卓の自分の方がよほど信用できる…
と書いてみて、ふと思いついた。
ひとは、ある閾値をこえてしまうと、不得意になるのではないか。
(これでさえ十分抽象的だとおもうけれど)1+4なら人力でできる。
でも、12345678×23456789となると、ほら、もう計算機を必要とするでしょう。
運転も同様。たとえば300キロメートル離れた不案内な土地では、ね、カーナビはぜったい。
というわけで、あえてAIを先に持ってくるから不信感も生まれるわけで。
「いままで、できないことができるようになるんだ」あるいは「いままでより早くやるんだ」というふうに持ってくれば、よろしい、とおもう。
さいきん英文でやり取りする機会が増えてきた。
そのさいには、Google翻訳で翻訳し、Gingerというアプリで文法チェックをしている。
じつは「これ、どうなのかなぁ」とおもったりもしていてるけれど、
でもサ、ほかの方法、昔ながらの、じぶんで辞書やグラマーの参考書を引きながら英文を書いても、Google翻訳&Gingerでも、辞書&グラマーの参考書でも、そうそう変わらないだろうと、おもうんだ。
このへんだって、計算機やカーナビと同様の感覚だなぁ。すくなくとも、オレは。