権利、観察、経験、自由といった概念は、日本にはナイ。あるいは自然に、たゆたっていて、あえてコトバにする必要さえなかったのかもしれない。
ま、いずれにせよ、江戸時代が終焉をむかえ、明治の世に変わり、西欧の、概念の言語化されたコトバを日本的にする必要があったようで。
加藤弘蔵、西周、福沢諭吉らにより、造語、あるいは仏教語や漢文から、それらしい熟語が当てはめられた。
メディア、媒体というコトバだって、それに類するコトバだと思っていて。
なにやら分かったようで、分からない。
オッケー、ここでは、メディアや媒体を「橋わたし」というコトバに変えてみようか。
コピーライターには、コトバを作る特権が与えられているんだぜ。ウソだけれど。
たとえば、テレビは、番組と視聴者の「 橋わたし」をしてくれる。新聞なら、記事と読者の「橋わたし」をする。
いずれにせよ、視聴者、読者は一方的に情報を受け取っている。
フィスブックやツイッターといったSNS系はどうだろう。たしかに情報を、わたしているけれど、
一方的ではナイ。さらに言えば、
「橋わたし」をイメージすると、橋がいくつも、かかってしまって…あらら、分かんなくなってしまったわ、オレ。
ま、こういうときは、同じイメージでとらえるのは、ムリ筋でして。
ここでは、自由に乗客が電車から乗り降りする風景を、思い浮かべてみようか。
じっさいに、メディアに対して、SNS系のことを、プラットフォームというんだネ。
あたらし系統のものは、さいしょは既存のものと似ているらしく。
たしかにプラットフォームの当初は、見た目がメディアと似ていた。なので、メディアのどっぷりと、ひたっていた世代(オレ)は、その区別がボンヤリしていた、
がしかし、げんざいでは、メディアとプラットフォームの系統の違いは際立って見えていたりする。
旧世代にとって、これは大切なポイントなんですねぇ。