合理的について

「冥土の土産」、「曽根崎心中」など、近松門左エ門の創作が大好きなんだ。

江戸から大阪へ、元禄時代、すでにお金の移動には為替が使われていた。

江戸は金貨、大阪は銀の重さが価値の基準となっていた。同時代、両者を交換する業者も存在した。

秀忠、家光くらいまで、米(コメ)至上主義が息づいていて、

その後、綱吉の時代、元禄時代以降、お金と商品による、いわゆる商品経済に移っていった、たぶん。

日本の合理性は、お金により培われていった面もあり、と思ったりもしている。

新井白石の「折たく柴の記」を読むと、白石の理屈っぽさを知ることができる。

「そりゃ、ま、それを言ったら身も蓋もないよねぇ」と思うくらい。

「世の中のことは、なにごとにせよ、見聞きしたことは、ただそのままに捨てておいてはならない。これもまた古人のいう「格物」の一端であろう」(「折りたく柴の記」(新井白石・桑原武夫訳/中央公論新社/p156)

本書の、「格物」ついての注釈は以下のとおり。

「朱子学の根本理論。それぞれの事物に即して、それぞれの理を極めようとすること。理は自然界、人間界を貫く大法則」

自然界、人間界には理があり、その理を極めること =>もしかすると、合理化という言葉は、朱子学から来ているのかしらん。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!