「広告批評」

このウェッブサイトには広告を貼っていない。差し当たり理由はない。なんとなくである。

一方、広告にたずさわっていたり、長年、頭の片隅でそれを考えていたりして。旧来の広告のドグマから、なかなか抜け出すことができなかった。

その状態から(たぶん)抜け出し、既存を相対化できるようになったのは、つい最近である。

ここでハナシはそれる。

「文化人」という文字ずらをジッとみつめる…なんか変なコトバだなぁ。

オッケー、いい機会なので、ここで定義してみよう。

ひとつめ。保守とは何か。便宜上、こちらも定義しておこう。

それは、親から、そのまた親(祖父母のことネ)、場合によっては、そのまた上の先代から無形のものを引き継いでいる人たちがいる。(もちろん、すべてではないけれど)政治家は、その一例である。地方の医者も同様だ。

ふたつめ。事業とは、資本(そして借り入れと、いわゆる内部留保)を資産に代え、その資産により価値を生み出すことである。

ひとつめの先代からの引き継ぎ、ふたつめの資本と没交渉の人は多い。それに対して、アンフェアだという思いがある。そこには「人って平等じゃない?」という根本がある。

そして、その思いの旗振り役が、いわゆる文化人というふうに、まぁ、ここでは定義しておこう。

「サブカルチャー」というコトバがある。

作家や学者といった文化人に対し、サブカルチャーは、ミュージシャンだったり、あるいはアートディレクターやコピーライターといった広告組の周辺に、たゆたっている。

前者については、かなり昔から言論空間が存在していたけれど、後者のそれは70年代、80年代に花開いた。

僕はサブカルチャー誌である「ビックリハウス」、「宝島」そして「広告批評」にドップリつかっていて、コピーライターになったのも、たぶん、その影響だとおもう。

なので、とりわけ「広告批評」のドグマから抜け出せないままでいたけれど、

つい最近、その「広告批評」的なことを相対化している自分に気づいたわけ。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!