先日、Newspicsにて、堀江貴文と川上量生の対談を観た。
楽しみにしていた以上の、充実した内容だった。
衝撃的言っても過言ではないかも知れない。
ここで話は、やや、それる。
漱石・鴎外の小説、西田幾多郎の「善の研究」そしてアンリー・ベルクソンの著作を読んできた。
四氏は同時代の人たちで、当時、知識人の間で、意識やエゴについて深い洞察が求められていたように思える。
それに対し、まったく違うアプローチもある。
仏教である。それもチベット仏教。
ダライ・ラマは物には実体がないとおっしゃる。(たぶん)エゴや意識にも実体がないとも。
この両者の隔たりが、ずっと悩ましかったりして。
それについて、冒頭に触れた堀江・川上対談のより、新しいアプローチを得ることができた。
ポイントは、ネットやAIに意識は存在するのかという点である。
認識なら、何も人間だけでなく、イルカもAIも普通に出来ると思っている。
けれど、AIやネットの意識には否定的だった。
ところが川上説によると、意識は、たまたま人に宿っているだけと言うんだなぁ。
個人的には、このことをウィルスのアナロジーと捉えるとイメージがしやすい。
ウィルスも意識も、自身が生き残ることが自己目的という。
なので、意識が人から、次の段階に入り、AIやネットに移っても不思議ではないというロジック。
この仮説に立脚すると、わりと、すっきり行くんだなぁ。
ちなみに「攻殻機動隊」の理解も進むよね。
もっとも、こちらはアニメの世界だけれど。