窮屈な世の中である。
漱石先生は刹那的な瞬間の大切さを、その処方箋として挙げている、
がしかし、それは形而上的な対処法であって、
さて、社会について、窮屈から解放する必要条件は何だろう?
最近つとに思うことがありまして。
それは、既存の同じ土俵の上でやっていては世の中は変わらないということだ。絶対に。
オッケー、結論から言おう。
世の中を変えるのは2つ。
ひとつはアウトサイダー(不良)であり、もうひとつは革新的なテクノロジーだ。
変化を求められていない時代なら、いわゆる優等生には合理性がある。
優等生をトップに、それをエライとし、以下、人が連なっていくみたいな。
しかし逆に変化が求められている時代には、優等生には合理性はない。
習慣というのは根強い。なので多くの人は惰性で見ているわけだし、
優等生たちは「ルールを守れ」的なことを言っているに違いない。
けれど、そのルール自体が時代の実際に合わなくなっているのに、その「ルールを守れ」には合理性は、もうない。真面目な人ほど、迷惑になりがちだし、はっきり言ってしまうと、邪魔だ。
一方、いま求められている人は、既存のプラットフォームから外れている人であって。
しかし(引きこもりを否定していないけれど)例えば引きこもって、SNSに、世の中への恨みつらみを書き込んでいるだけでは、残念ながら、影響力には欠けてしまっている。
求められるのは、アウトサイダーであって、しかも影響力がある人なんだね。
いきなり歴史上の話になり大上段になってしまい、恐縮だけれど、
源義経は、名乗りを上げて一騎同士、一戦を交えることが常識だった時代、おかまいなく、団体で騎馬を組んで相手の陣地に突撃した。
戦いの後、自分の領土に戻ることが常識だった時代、信長は奪い取った領土に城を築き、そこを戦の前線とした。
高杉晋作は百姓に鉄砲を持たせ、先祖代々の鎧を装着した武士団を襲撃した。
周りとまったく違っても、それが彼らの常識であり(現在は何かと名称で線引するイヤな時代だけれど)精神医学の医師からすれば、現在なら、病名が付けられたのかも知れない。
以上、アウトサイダーのはなし。
アウトサイダーのはなしだけで長くなってしまっので、社会を解放するもうひとつの働き、テクノロジーについては、またの機会に。