「失われた30年」


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以下、書きっぱなし
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失われた30年といわれている。

いまから30年前というと、それはバブルの崩壊の1991年だろうか、それとも、阪神大震災、オウム事件(麻原逮捕)、ウィンドウズ95がリリースされた1995年だろうか。

前者にスポットを当てると(シロウトの僕の言うことだけれど)経済的なアプローチで言及できる。

友人と、経済成長は需要と供給のどちらが大切なのか議論したことがある。どちらも大切と言えば、ま、そうなのだけれど、さて失われた30年、あえて言えば、どちらが不足していたのだろう。

友人は、日本の経済が良くないのは需要が不足しているからと言う。

一方、僕は「供給」説だ。

先に言ったように、僕は経済について不案内なので、経済学っぽいことを言う知識も能力も見識もない。

自分の言葉で言うなら、失われた30年のあいだ、日本は世界を驚かすような真新しい商品やサービスを作れなかった、と、まぁ、こうである。

それに対し、友人は「欲しい商品はないよね」また「使いたくても、使えるほどお金がないよね」という説だ。

後者を、またマクロにグイと広げると、アベノミクス、いうか、日銀の元黒田総裁の行った「異次元の金融緩和」と関係している、とも言える。

日銀の量的緩和は、金融機関を通じて、あるいは(株や土地など)直接、市場に異次元にお金を市場に供給している。それにより需要が生まれた。この点、アベノミクスは思わくどおり行き成功している。しかし、それにより供給面に甘えが生じた、とおもう。効率よく働く工夫や、新しいものを生み出す努力が疎かになってしまった。バブルも似ている。土地や株が上がり、同様に創意工夫をしなくなっていた。

この原稿は断続的にメモ風に書いている。けさネットをチェックしていたら、日経(かな?)のネット記事に偶然「失われた30年」についての記事が目についた。その記事では「失われた30年」の始まりを1993年としている。きっちり30年だ。

1993年は自民党政権が倒れ、細川連立政権が誕生した。そう言われれば「そうだよなぁ」と思ったりもする。同記事に官僚制度にもまたヒビが入ったと書いてある。官僚制度へのヒビって何だろう?

ともあれ、同記事の説では、既存の制度から新しい制度に移行するのに、30年、つまり1世代かかるそうだ。

現在、30歳以下の人は「失われた30年」の間に生まれ育ってきた。この世代の人たちが、その人たちに合った価値観で社会を作っていく、というと割り切りやすいかな。

ならば次の30年、彼ら、それからこれから生まれて来る子どもたちが中心になって行き、現在の50代は80代に、現在の40代は70代になり社会へのコミットメントは減ってゆく。というふうに考えてみると、30代以下の価値観や事業をサポートしていくのが、現在、社会の中心にいる人たちの立ち位置にすると良いのではないか、と思ったりもする。


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以下、ChatGPTによるリライト
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「失われた30年」とは何を指すのだろうか?1991年のバブル崩壊か、1995年の阪神大震災やウィンドウズ95のリリースなのか。

経済の視点で考えると、この30年は日本が新しい商品やサービスを生み出さなかった時期と捉えることができる。友人は、経済の停滞は需要の不足が原因だと考えているが、私は供給の問題だと思う。

アベノミクスや日銀の量的緩和は、金融機関を通じて市場に資金を供給し、需要を生み出した。しかし、この取り組みが供給側に甘えを生じさせたと感じる。過去のバブル時代と同じく、新しいアイデアや効率的な方法を追求する意欲が低下していた。

日経の記事によれば、「失われた30年」は1993年から始まったとされ、その年は自民党政権が終わり細川連立政権が始まった。この記事は制度の変化には30年、つまり1世代がかかると提唱している。

今の30歳以下の世代はこの「失われた30年」の間に育った。彼らが次の30年で社会の中心となるだろう。だから、現在の中心世代は、彼らの価値観や事業を支援するべきだと感じる。



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公開まで、やや時間がかかりまーす!